千桃について/或いは歪みの伝播について

 まず、ユースティアの総括から始めよう。
 なんとなれば、僕は千桃という作品を、ユースティアに寄せられた感想へのアンサーとして受け取ったからだ。最初に言っておくと、僕は穢翼のユースティアという作品の出来のよさ―――キャラクターの造形や背景美術、BGMなど―――を高く評価しているが、決定的に許容できない作品であるとも認識している。

 ……キャラクター個々の知性を極力高く保ち、彼らに恣意的な/局所的な愚かしさを背負わせることで物語を都合よく操作するような作劇からは距離を置く。穢翼のユースティアという作品に僕が見出した最大の美質はそれだ。必然性に強く裏打ちされた物語は登場人物の強度を損ねることなく、より壮大に、より過酷に世界を作り変えてゆくことを可能とする。誰も悪くないにも関わらず、誰もが格好良く優しいにも関わらず、戦いは苛烈さを増し、相互理解は齎されない。その果てに大団円などはなく、彼らの相互不理解と狭量さは、一人の少女の犠牲という形でその責を問われる。穢翼のユースティアという物語はそのような苦く、しかし美しい悲劇の形をとって僕たちの前に現れる。
 少なくとも、悲劇それ自体を説得力のある過程として描くことに関して、同作は失敗していないように思える。舞台と登場人物の初期配置に対し、精確なロジックを繰り返し適用することで、稠密な事態の遷移が繰り返し成立している。そのことに関しては、間違いがない。

 そう、物語を動かし続ける仕掛けに関しては間違いがない。初期配置から連綿と導かれる理路の連なりに対して、明確な操作ミスは見受けられなかった。
 だから、僕の強い苛立ちがどこに向けられるかといえば、それは物語の始端と終端の処理に対して、ということになる。
 
 浮遊都市ノーヴァス・アイテルは、物語世界の「外側」を消去するために要請された舞台装置だ……と言い切ってしまって、問題はないだろう。そこでは土地面積の限界が生産と居住の限界を規定し、ローカルでプリミティブな秩序が世界全体を均質に覆うことをも成立させている。世界は完全に閉じてしまっていて、外部へ侵攻することで共同体を富ませ/皆で豊かになろうという発想も、自分たちだけでより良い外へ逃げてしまおうという発想も、そこには存在し得ない。未だ誰のものでもない富は、浮遊都市には存在しない。
 だから彼らは富を奪い合い、罪を押し付け合う。皆が等しい痛みを受け容れ、適切に富を分配すればよい―――などといった綺麗事が力を持つような世界ではないことは、誰もが理解している。上層の民からすれば富の再分配は端的に己の不利益であるし、そもそも、ノーヴァス・アイテルは崩落という形で定期的に/物理的に失われる定めにある。総量が目減りしていく世界で展開されるゼロサムゲームに於いては、富の適切な分配すらもが延命策に過ぎない。であるならば、少しでも長く/多くの幸福を甘受しようと固執することは、全く自然な振る舞いだろう。
 このような世界で紡がれる物語が、やがて全ての人間を巻き込む闘争に雪崩れ込むことは、極めて自然だ。持つ者と持たざる者―――もっと言ってしまえば、持つ陣営と持たざる陣営とがいて、富の再分配は為される気配もなく、そして富の総量を規定する浮遊都市そのものが崩落で徐々に失われていくのだから。実際、闘争に至る理路に無理を感じる瞬間はなかった。その闘争の果てに少女がその身を犠牲にすることもまた、ひとつの論理の帰結として無理がない。全ては必然の流れとして、ティアという少女は喪われ、苦い後味を伴った救済の前に浮遊都市の住民は、そしてプレイヤーは放り出される。

 ―――しかし待って欲しい。そのような過酷な状況から少女の挺身による救済が導かれることの必然性を肯定したとして、まだ語りの俎上に載せていない要素が残っているはずだ。
 世界に存在する富が有限で/目減りしていくような状況は、どのようにして成立に至ったのか。そもそもなぜ、浮遊都市ノーヴァス・アイテルは空に浮かんでいるのか?

 その端緒は、遠い昔の人々の罪過だ。
 神の怒りによって大地が穢れに満たされた時、神の託宣を承けた巫女に信仰を集めれば救済の機会があったところを、人々は巫女を磔にして都市を浮かばせ、逃げ延びてしまった。そのことで神に見放され、天使と成った巫女には恨まれ、咎人たちを乗せた方舟は終わりに向かって飛び始めた。
 そして妄執そのものと化した天使はついに都市を墜とすために我が子たる少女を遣わし、―――その少女が人々を/殊に一人の青年を愛したが故に、またその青年が少女に自己犠牲を伴う愛を示したが故に、彼女は身に宿った天使の力を遣って大地を浄化し、浮遊都市を着陸させた。代償として、己の存在を失って。

 なるほど確かに美しい話だ。だが、ひとつ疑問が残る。
 この世界には現実と違って、神がいる筈ではなかったか。彼はどこへ行ってしまったのか?

 多数を救うために少数を切り捨てることを己に課したルキウスと、個人を救うために合理性を捨て去ることを―――最後の最後とはいえ、決意したカイム。そして、立場は違えど矜持のために戦いに身を投じた浮遊都市の住人たち。末期の世界で命を燃やす彼ら人間に対して、神はついに、沈黙を破ることはなかった。一度は人間に救済の機会を与えてみせた神は、これほどの過酷の中にまた芽吹いた人間性の輝きをみてもなお、救済を齎す気はなかった、ということだ。
 神は過酷な世界を用意するだけして、人間を見放してしまっていた。天使―――初代イレーヌもまた神の御業でその身に力を宿した人間であり、神に見放された者であるから、穢翼のユースティアという物語は徹頭徹尾、過酷な世界に歪められた人間同士が争う話でしかない。今はもういない人々の愚かしさと神の無慈悲さとによって始まった地獄は、報われぬ殉教者であるところの天使に生み出された、無垢な少女の挺身で終わりを告げる。
 精緻な物語の始まりと終わりに、救いようのない歪みが露出してしまっている。

 知的で倫理的なキャラクターたちに悲劇を演じさせるには、ここまで露悪的な仕込みをするしかなかった、と解釈することは無論できる。
 しかし、それにしたって、あんまりな話ではないか。ただただ理不尽と過酷を齎すために存在する神に、無念が晴らされるどころか、己の娘であるところのティアを除いてはその無念に思い入れてくれる相手すらいなかった天使。そして、恋を知り、その恋だけを胸に、自らの身を捧げた天使の娘。
 緊密で純度の高い物語を成立させるため、歪みを端へ端へと伝搬させていって、その最果てに位置するキャラクターのみに恐ろしいほどの歪みが背負わされてしまっている。僕がこの作品に関して全く許容できないと感じるのは、ここだ。

 

 さて、千桃の話だ。
 千桃においては、神による救済が描かれる。世界観レベルでの人と神との関わり方について、また神の描写―――殊に、人格を持ち人語らしきもので意志を疎通させられるものであるという点―――についていくつか言いたいことはあるが、ここでは措く。√構成や呪装刀/武人の扱い、政治要素等についても措く。そのうち書くかも知れないが一生書かない気もする。だいたいこれを読んでいるあなたと同じようなことを考えているだろうと思う(これは数年後の自分へ向けた記述です)。
 ……ひとまず、理不尽に嬲られた人間たちに、ついに神が手を差し伸べたこと。そのことについては、肯定的な評価をしたい。また、作中時間軸における悲劇に立ち向かい/終わらせるのが、その悲劇の端緒に関わった者である……という点についても、ユースティアよりも踏み込んだ処理であり、評価できる点だと考えている。ここでは物語自体の出来の良し悪しについて語ることはしないが、こと正しさ、キャラクターの尊重という意味に於いては、千桃はユースティアでの歪さを修正してきた作品であるように、僕の目には映る。
 一点、許容できないキャラクターの扱いを除いて。

 問題は、禍魄である。
 奇蹟の代償として生まれた彼には、作中で描かれた根本的な悪性の、その半分が背負わされている。もう半分は皇国の巫女たちが根の国を犠牲に術を行使してきたことだが、そもそもの話として、禍魄は彼女らによって生み出されたものであり、禍魄についても本質的には彼女らが悪い。身も蓋もない言い方をすれば、攻め落とした国の神を貶めて得た奇蹟に代償が発生し、そのツケを2000年かけて精算する物語こそが千桃である、といえる。禍魄が悪であるのはそのように生み出されたからでしかなく、だから本当であれば、問題は悪性そのものとしてしか在れない者をどのように遇することができるか、つまり白面や言峰綺礼と相似の問題系に属する筈であるのだが―――最終的には諸悪の根源扱いで根の国に置き去りにされてハッピーエンドということになっていた。
 正直な話をすれば、当該シーンではちょっと笑ってしまった。こんな展開、笑う以外に反応のしようがない。
 
 悪として生み出され、悪として振る舞い、悪として封じられる。そのような禍魄の哀しさが慰撫されることもなければ、そもそも彼の無惨なありように思い入れる者すら、千桃という作品にはいない。その無関心、人類に敵対する装置としてしか捉えられないことについて、禍魄は初代イレーヌと同じ哀しさをもって僕の目に映る。
 神による救済という形で、確かにハッピーエンドは実装された。しかし、作中に過酷や悪性を導入する際の歪みが特定のキャラクターに背負わされてしまう構造については何も変わっていない。神が慈悲と人間への興味を獲得したとしても、その無慈悲さ/悪辣さは禍魄という形で外部化され、相変わらず運用されている。人間を憎む天使の役割もまた、禍魄が担っている。初代イレーヌの無念は未だに晴らされていない。問題を背負わすキャラクターを一人に絞ったことで部分的に健全化することはできていても、問題の総量は変わっていない。僕はそのように読んだ。

 オーガストがまたシリアス/ファンタジー路線の作品を作るのであれば、次こそは初代イレーヌの無念が慰撫されるような作品を期待したい。そんなことを、思う。

小さな彼女の小夜曲 メモ

 断片。

 開始早々に一度、そして中盤以降にちらほら存在した汐音の一人称視点だけれど、ですます調でのモノローグ連打がですます調で喋る女の子の内面描写として適当なのかというのは昔からちょっと疑問で、モノローグを他人に向けた発話と同じ口調によって組み立てることで却って汐音という女の子の内面から離れてしまっているような印象がある。そういう意味ではころげて(コンプしてない)のあさちゃん√(クリアしてない)の処理などは巧かったのだなーとか。

 水夏√。最高の幼馴染が凡庸な恋人に堕していく話、というのは流石に悪意的な要約になってしまうけれど、そんな印象。
 幼馴染なのでエスパーじみて意思は疎通するし同じ環境で世界観を育ててきたから互いに自己の延長線上に相手を観ている、という圧倒的につよくてエモい状況から、恋を知るとその距離の近さが途端に恥ずかしくなる―――って方向に持っていかれるのはやっぱりつらい。事後的に「幼馴染」という関係性、そこで成立していた絆さえもが「恋人」の下位互換として定位されていく感覚。未分化であることをそのまま肯定するような論理こそが観たかった。
 なのでまあ、他のヒロインの√で負け幼馴染として振る舞ってる時が一番かわいいと想ってしまうのも仕方のないことではあろう。汐音√とか。

 花梨√。邪気眼を後輩に据えるのやっぱり穏当なれど邪悪よなというのはあって、後輩であるがゆえに若気の至りとして許容される/周囲に無礼な振る舞いをしてもある程度かわいがられて終わる、というのは見ているだけでつらい。彼女の精一杯考えた設定はすべて微笑ましいものとして処理され、誰一人としてそこに思いいれてやることはない。主人公はなぜダークフレイムマスターではないのか。

 楓先輩√。かわいいけどパンチがよわい(雑感想(上のも大概雑感想だが))。
 青山ゆかりは先輩キャラならまだまだいける。僕はキメ顔でそう思った。

 茉莉√。主軸となる要素がやたらとエロゲ的な不穏さに満ちていて(伝奇展開を思わせる猟奇的な昔話、実家との折り合いの悪いお嬢様)、そのわりに何一つ爆弾が爆発しないのでものすごい驚いた。そういうところで過去のテンプレを拾わない、というのは個人的には歓迎したい思想ではある。ヒポポ金剛石の話する? しません。
 なんでもない話ではあって、まあ本作全体がそうなんだけど、出来事自体はどれもこれも小さく、凡庸で、卑近であったとしても、そこに思い入れる人間の悩み/喜びはどこまでも無制限に高まりうる、という認識に満ちていて、それはとても精確な世界の把握だと思う。ただ、お伽話のなくなってしまった世界なんだなーという気のしないではないけれど(資源の枯渇した世界には内的な沈潜しか残されていない、と最果てのイマでも語られていた)。

 汐音√。汐音かわいい。
 悪者を作らない作劇。あと汐音がかわいい。

 悪者を作らない、唐突な悲劇にキャラを投げ込まない、というのがfengの持ち味ということでいいのかなあ。一作目しかやったことないのでもう記憶がな。

Rocket Leagueについて適当に

 すごいデザインだとかしきりに言ったけど何がすごいかあんまり言ってなかった気がするので備忘。あとスポーツゲーの知識とか超薄いので基本的に一般論で語っている。
 識者の卓見がほしいのでみんなブログを書いてくれ。

 サッカーやバスケをゲーム化することには困難がある。それはリアルタイムのゲームでありながら局面によって抽象化のレベルが乱高下するからだ、と思ってまず間違いない(ベタで陳腐だがまあ正しい理解ではある筈)。ボールを運ぶフェーズでは重要な情報は各プレイヤーの相対位置関係であり、対面でボールを奪い合うフェーズではプレイヤーの四肢の位置から視線や呼吸といった一挙手一投足までもが重要な情報となる。そのような落差がシームレスに生じること、が困難さの源泉であって、たとえば野球ゲーが非常にうまくいっていることはこの観点から容易に説明可能だし(投打戦―捕球―走塁戦、という局面の変化)、また或いはSFCのスラダンのゲームのように場面ごとのルールを用意し切り替えることで現実のスポーツを再現した作品を想定することもできるだろう。

 ゲームとはモデル化の産物であり、だからこれら球技のゲーム化に於いては局面ごとの情報量の多寡がゲーム化の困難さに直結してしまう。とはいえ、実際には情報量を過密に拾うことは無理なので、全体として強いデフォルメで統一されることになる筈だ。
 たとえばサッカーについて考えてみると、抜かれそうになったので無理な体勢で足を出す、みたいな動きを「ゲーム性の枠内に押し込んで」実装する困難さは甚だしい。怪我のリスクやファール判定の微妙さといった要素をかなりの程度で再現しない限り、その動きはシュートやスライディングといった他の動作と同じく、ひとつの選択可能なコマンドとして並立されてしまう。実際には両プレイヤーの四肢の位置関係でファールになったりならなかったりボールが奪えたり奪えなかったりする訳だが、たとえばそれらを素朴にサッカーゲームの人体ポリゴンデータの当たり判定で再現しようなどという考えは言うまでもなく馬鹿げていて、そうしたいのであればまずキャラクターの四肢を思い通りに動かせるような操作性を実現せねばならない。介入できない情報による精緻な判定、というのはランダムの確率判定とプレイ感のうえでは変わらないからだ。無論そこまで複雑な操作を導入することは難しいので、実際にはそのような動きは大きく抽象化され条件に応じてリスクリターンの決定するひとつの選択肢に落とし込まれるか、或いは根本的に実装されないだろう。
 話が若干逸れるが、プレイヤーのコントロールの軛を逃れた場所でリアルさを実現されることには大きなストレスが生じうる、という認識は非常に重要で、たとえば疲労という要素などはその最たるものだ。疲労とは身体だけでなく意識にも作用するファクターだが、たとえば操作キャラが操作を完遂できない、などという事態を快楽に繋げることは難しい。そう考えると(多くの作品でそうあるように)身体性能の単純な悪化という形で疲労を実装するしかないようにも思えるが、それは球技においては単に「同じキャラを長時間使えない」というゲーム側から課せられたルールとしてしか理解され得ず、そこには現実の人間の疲労にまつわる身体性は欠片も残ってはいない。

 みたいな話をさっくり無視できるのがRocket Leagueのスマートな部分だと思っていて。たとえば「抜かれた時に相手に追い縋る」という、本来であれば疲労と個々人の走力の差とが絡みあう要素にブーストシステムで駆け引きを導入していることなどは素朴に正しすぎて驚くし、ボールをスティールする際のファールというグラが綺麗になればなるだけ面倒くさくなるあの問題についても「車なのでガンガン当たってもいい、ボールが奪えるかどうかは物理演算次第」という極めて正しい状況がすんなり成立していて素晴らしい。
 やはり「挙動のシンプルな古き好きゲームっぽい車」という人間から果てしなく情報量を減らして成立しているものをプレイヤーとして据えることが最大のポイントで、そのおかげで物理演算という極めてリアルなルールを根底に敷いたボールの奪い合いが成立している訳だ。物理演算されたボールでサッカーするゲームを人体モデルで再現すればどれほどのバカゲーになるか、は想像してみればすぐわかる。

Rocket Leagueの優れたところはその珍奇なビジュアルの裏に、スポーツゲーが宿痾として抱える本質的な困難さを乗り越える工夫が成立しているところなのだと思う。「これが人間のサッカーゲーだったらどうなるだろう」と考えた時、コンセプトがゲーム性を支えていることが容易に了解される。こういう意味ですごいデザインだ、これを選んだ時点で勝ってるじゃん、みたいなことをしきりに言ってたわけです。以上。

メルブラ初日感想

 メルブラはやりたいけどカーニバルファンタズムの売上には死んでも寄与したくねえとの思いからスルーしていたところに今回のSteam移植の話であり、一も二もなく購入することは必定である。
 遊んでくれた某氏と某氏、ありがとうございます。

 初代とReActはちょっと触ったことがある、というか確か部屋のどこかにPS2版ReActが転がってる気がするのだが、まあ別ゲーっぽい。そもそも投げってレバー入れ強攻撃じゃなかったっけ? ってレベル。
 キャラとしては満月ワルクがよさそうかなーと。繊細な立ち回りができれば一方的にダメ取れるタイプのキャラっぽく見える。しかし立ち回りが雑すぎて姫アルクにボコられてしまった。負けたのはいいとして(よくないが)、後半あんまり学習能力ない人間の動きしかできなかったのが非常によくなかった。ダメでもいいからいろいろ試してフィードバックを得なければ。

 シールド周りの攻防とか空ガ不可攻撃にまつわる心理戦とかいったものが存在するんだろうなーということは容易に想像がつくけれども実際そんな余裕はないので、とりあえず刺し合いから近づいてリターン取る訓練かなあ。他のキャラも触ってみないと。

ユースティアについて(些細なこと)

 自分の感想読み返してたらちょっと整理された言葉がスポーンしたので書いとく。

 物語の進行に応じて扱われる問題が巨視的になっていく、というのは僕にとって非常に馴染み深い処理で、ユースティアの情報提示のうまさはそのような処理に対して半ば自動的に受容の態度をとってしまった―――と言って不精確ならば「チャンネルを合わせに行ってしまった」みたいな―――僕に対し、最後にどんでん返しを仕掛けてきたところ、なのだと思う。
 意識していなかった恣意や自動性を物語の側から暴かれることには快楽がある。他方では精緻な文脈の操作に長じたエンタメで、また他方では異常な洞察をもって書かれた純文学で、そして一般にはそれらの間を内分する任意の点において、そういったものはきっとたくさん成立している。ただ、これをエロゲで喰らったのは初めての経験だった気がする。構造を分析して同種に分類されるものを過去にやったことがあるかどうかではなく、僕の認識上の経験として、初めて。

 ありとあらゆる媒体で、殊に僕の大好きな(まあプレイ本数など知れたものだとはいえ)JRPGにおいて、物語の進行と共に価値判断の基準がより巨視的に、より公的にシフトしていくという事態はよく起こる。たとえば村人が襲われたことに激昂して兵士に喧嘩を売ることで物語を始めた主人公が、やがて世界の命運を左右する戦いに携わるといった時、彼の思考が英雄のそれに変じてしまっていたとして、そこに違和感を持つことはないだろう。顕微鏡のレンズを取り替えるように、取り扱う問題が変われば見えるものは大きく変わってしまって、世界の危機とそこに直結する個人―――英雄であり聖女であり魔王であり神であり―――を除いては人格がないような、数字にしか見えないような、そんな状態になることがあると、僕は既に了解している。
 盛り上がってくる物語、終わりの予感を漂わせる演出、そういった要素の助けもあり、僕の感情は世界とヒロインとを天秤にのせたカイムの判断に同調して揺れ動くわけだけれど、そこには物語の中盤までにあれほど強調してきた「個」を捉える視界が完全に失せている。数でしか人間を捉えていない、属性でしか人間を判断していない、下層民のそんな揶揄にかつて同調していた筈の僕はそこで初めてコードによる自動性とテーマが主張するものとの軋轢に気付かされ、ここに改めてカイムの決断が問われる―――といったような。

 書いてて思ったけど、世界観のスコープが公的に/無私に移行しようとする無形の力、文脈に支えられた重力みたいなものに意識的に抗ってたのがWA2だったのかなーとか。無論それだって既存の文脈に位置づけられるものであり新規性をとりたてて強調したいわけではないと断っておきつつ。

ユースティア感想(補足)

 他人の感想などを漁ったりしていたので追記とか。検索して行き当たるのが個人ウェブサイトじゃなくてブログばかりというのが時代だよなあと思う。

 「世界は不条理である」とする、作品全体を貫くテーマの徹底にあまり快楽を感じない時点で僕は客ではなかったのでは感が漂う。その部分に意義を見出す人は結構多かったようなので。
 確かに世界は不条理である。現実世界からしてそうで、人間の生に所与の意味なんてない(神とか実在しない限りは)。意味はなくても生化学的な報酬系によってハードとしての人体は駆動されるし、或いは信仰の獲得によって主体的な「意味ある」生を過ごすことなんかも可能だ。殊に僕は後者のような、壮大な欺瞞によって自己を駆動する人のありようを好ましく思っている。自己実現を目指すこと、夢を次代に託すこと、世界をより善くすること、これらは全て無意味な自慰行為に過ぎないが、無意味であるが故に尊い。

 そのような不条理を追認すること、それ自体にはあまり価値を感じられなかった。だってそれは前提だ。世界が不条理であることなど誰の目にも明らかだ。全ては論理的な帰結に過ぎない。定められた通りに資源は枯渇し、誰かがそれを補填するか、或いは皆で仲良く死ぬほかない。……それが本当に単なる現実世界の縮図、寓話化の賜物であったのならば。
 しかし、あの世界には天使がいて、神がいた。カイムたちの受難は遥か昔の人々の愚かしさのツケに過ぎないのだ。なのに最終局面で神が出張ってこないのなら、本当に救いがなさすぎる。神がいて、しかしなお動かない。現実よりもよほど酷いではないか。神が救わない理由を作中で内在的に用意することは難しい―――だって、身を呈して他者を救おうとする兄弟がそこにはいたのに―――のだから、自然、我々の視線は外部に誘導される。製作者の都合で救済されなかった世界に見えてしまう。人間の意図を見てしまう。……スタッフこそが「神」だ、とまで言うつもりはないけれど。

 しかし適当に流し見た感じでは皆さんけっこう個別√が嫌いなようで、これがよくわからない。
 結局のところ都市は堕ちるんだからBADじゃないか、という意見も見る。だが、執政公の最期の悪あがきが都市の寿命を大幅に縮めたらしい描写もあったことだし、「解放」のタイミングと場所を考えて延命しつつ穏当な手段でティアから天使の力を譲渡していけば平和裏に都市を浮かせ続けることは可能だ、と読むのが善意的な読みではないかと思ったのだが、そういう見通しが拒絶されるような要素って何かあっただろうか。
 個別√以外の方がキャラが自立していてかっこいい、というのもまあわかる。わかるが、展望のない世界で強くあらざるを得なかったヒロインたちの姿を僕はそこまで肯定することができない。共依存を否定する態度をあのような無惨な世界に持ち込むことも、同様に肯定できない。どれだけキャラを苦難に放り込めば満足するのか。甘やかな退廃、幸せな停滞を許すくらいの優しさがあってもよいと思う。

 あとは天使がかわいそうだなあとか。彼女の無念は妄執として片付けられ、そこに思い入れたのはティアくらいのものだ。或いは個別√のその先に潤沢な時間が残されていたとして、そこで初代イレーヌの感情が慰撫される、そんな世界線があったら善いと思う。

ユースティア終了直後感想

 わかってることの端的な記述(前回記述とか)が思った以上に使い途ゼロっぽいのでもうちょい生煮えのテキストをそのまんま書いておく。結論出てないところはその旨を書く。
 
 好き嫌いでいうと好きだが、ものすごい疲れる作品ではあった。やはり終盤の展開はストレスを長く長く掛け続けられる構造になっていて、通常のヒロイン選択式エロゲのように共通→{ヒロイン個別(イチャラブ→問題→解決)}*n といった休憩を定期的に挟める仕組みではないので、鬱展開の実時間の長さゆえに疲弊した、という話になる。プレイヤーの感情操作って意味ではどうなのだろう。あれが故にラストシーンのカタルシスが担保されている、という体験の形は無論あるだろうし何とも言えない気もする。

 以下、雑に各論。

 ”「所詮……この都市には……はじめから……引き算しか、ないのだ……」”
 という執政公の末期の台詞通り、浮遊都市という舞台は端的に、世界に存在するパイの総量を予め低く固定するために存在していたように見える。絶えず生存圏を広げ外部へ外部へと侵攻していくことで資源を確保しよう、といった類の想像力を物語の最初から拒絶しておくための箱庭的な世界。閉塞したゼロサムゲームという前提を最後の最後までプレイヤーと共有するための仕掛け。
 結論としては順当に、豊穣な外部との接続になる。各人の内的な沈潜、譲れない信仰に殉じた生き様の獲得が結論であるのではと匂わせておいて、実際には浮遊都市の着陸と世界の浄化が大オチだ。Rewriteの問題意識を狭小な世界で再現した感じ、といってもまあ通じるのではないか。
 個人的な趣味の話をするならば、ティアと一緒に堕ちて死ぬエンドは欲しかった。
  
 個別の生を軽視し、自由意志と理想に殉じることの価値を見失わせることにかけて、中盤~終盤の展開は相当に巧かった(僕が単純な人間すぎるのではという疑義のないではないが)。選択肢を重ねながら、死ねば終わり、何をしても生きていなければと考えるカイムに、そして彼を誘導するルキウスに同調することで、プレイヤーは次第に合理的な視点を獲得していく。あれほどに心地よいと思っていた不蝕金鎖に苛立ちを覚え始めた時、終盤までの仕込みは既に完了している。そこではまた、直前にコレットとラヴィが見せた愚かしくも尊い信仰の姿は完全に忘却されている。価値観の枠組みが物語の進行に応じて書き換えられていることに気付いた時の快楽。
 終盤、ティアを巡るカイムの懊悩は、序盤の娼婦と客の事件の再演として僕の目に映る。逃避行を企てた娼婦に対してカイムが/そして僕が感じた「そんなことをせず賢く生きていけばいいのに」という賢い把握は、カイムが当事者として閉塞的な状況に放り込まれた途端に全く力を失う。生きることは容易いとしても、それを善き生として過ごすことは格段に難しい。選択の重さは余人にはわからない。過酷で無意味な世界において、それだけが本当に大事なものだというのにも関わらず。

 物語構造とテーマとの密接な連携は、大図書館の萌芽を感じさせる。
 単線的に進む物語の先を観るためには、カイムは思い入れを廃して一般論を語らねばならない。無視中立で合理的な選択を重ねることで執政公の企みは進み、浮遊都市の寿命も削られ、やがては少女の犠牲を伴った着陸へと至ってしまう。
 誰かを大切だと思うこと、合理性や一般論の枠組みを超えて肯定したいと感じること。その、ユースティア√の最後に示される結論を各ヒロインパートで先取りすることにより、物語はそこで進度の浅さに応じて幸福な終わりを迎える。物語の先を観たいというプレイヤーの願望がカイムを生の意味から引き剥がし、やがては鬱屈とした懊悩に叩き込むこの構図には、特権的に誰かを選ぶ、というノベルゲーム特有の構造に対する強い意識を感じずにはいられない。それがどういうものであるかは大図書館再プレイしてから詰めたい。
 どうでもいい話として、並列なルート分岐を採用した作品における「あのヒロインの√ではあの問題が解決してなくね?」的な問題に対してスマートな解法を示せているのはよいところだと思う。Kanon問題まわりの用語をあんまり覚えてないので細かい分類とか提示できないけど。すべての問題を経時的に悪化するものとする、のはクレバー。

 ヒロインについてはエリス周りがちょっとよくわからなかった。無論よくわからない、或いはうまく僕に訴求してこないことそれ自体は全く問題でないどころか演出意図にかなうものだと強弁することすら可能ではある。なんとなれば、カイムによる各ヒロインの説得、或いはもっと大きくみて問題の解決というのはルキウスが語った通りに空虚なものでしかありえないのだから(同時に、その空虚な振る舞いが余人に影響しうる、という身も蓋もない世界観もここでは成立している)。などと書いておいて何だが単にあんまり読めてないだけ疑惑が色濃いのでもう一回くらいはやる。多分。
 全員ふつうに好きだが、敢えて順番を付けるならコレット>ティア>フィオネ>エリス>リシアといった感じで。意外なのはティアで、献身的小動物キャラって結構苦手だったような気がするのだが、或いはその自己認識もだいぶ古いものなのかもしれない。俺がアラサーのオッサンだ。死にたくなる。コレットについては僕が信仰を尊ぶマンだという前提があるのでまあそういうことだとしか言えない。ヒトはあのように生きるべきだと思う。
 非攻略キャラも含めるとガウが一番好き。明瞭な世界観でもって生きる人間はいつだって眩しい。

 Hシーンなんかあんまり乗れなかった、のはやっぱり綺麗すぎるからではあって。
 粉っぽく/臭ってきそうな牢獄の絵を筆頭に、どこか陰鬱な質感をもった背景美術が目立つ作品にあって、いざ事に及ぶシーンに入った途端に画面から穢れが追放されるのは野暮というほかない。具体的にはフィオネ隊長とのファックシーンとかもっと家具が軋むような/撹拌された空気が埃を舞い上げるような生々しさを伴っていてもよかったように思う。趣味の話だ。或いはべっかんこう絵だと難しいのかも知れないが。技術ではなく絵柄の問題として。
 だいたいCTRLキーで飛ばしちゃったんだけど、カイムが突然喋らなくなるのも飛ばした理由として大きい。Hシーンでしゃべらない主人公って本当に意味がわからないのだが何なんだ。いや男の声が聞きたくないみたいな一般論の存在は知ってるがしかし。

 以下、くだらない話。

 天使からエネルギーを抽出して維持される世界、というのは流石にトライガンでは? と思ってしまったが、まあ論理的な操作の末に起こりうるネタ被りではある。貧民に貪られる聖者というモチーフを人間に啄まれる天使にそのままスライドさせ、搾取されるものを無形のエネルギーに読み替えることで同様の構図が成立するからだ。参照してそうな気もするけど参照せず被るのもまああるかな、くらいの印象。
 コレットは敢えてTOSと被せてるんじゃないかなあ、という気がする。宝石の受け皿→天使の依代、というのはそこまで独創的な比喩ではないにしろ、流石にあれだけ有名な「自己犠牲の聖者と天使に纏わる物語」との名詞被りに気付かずやってしまうというのはあり得ないと思うし。被っちゃったけどゴーサイン出した、くらいがまあ納得しやすい線か。
 アナスタシアという姓で当然のようにWA2を連想したが、まあこちらは元ネタの聖人の方だろう。

ユースティア フィオネ√終了

 断片的に考えてることを書き留めておく。

 作品世界がある程度プリミティブなファンタジーの形態をとることは、運命論を導入して人生を語ることのリスクを生死のレベルにまで釣り上げる効果を持つ、ように現時点では思われる。
 運命論とは人生を意味付ける視点の実装であり、ひいては世界を意味付ける視点の実装でもある。だから充分に近代化された社会に生きる上では、運命論を押し通すことは難しくない。社会を通すことで個人は世界と接続するのだから、その界面さえ保たれていれば人は健常に生きることができる。一方で世界が充分に酷薄であり、生存のために建前を擲って合理的な妥協を重ねねばならない時、運命を語る/信じることはそれ自体がリスキーな選択肢となる。世界の悪意を歪めて受け取ることは、その脅威を低く見積もることと同義だからだ。
 ともすれば露悪的に見えるほどに酷薄な世界観を採用していて、それ自体は僕の趣味ではないのだけれど、ここまで徹底しなければ「運命を信じるか否か」という問いを立てることはできなかったのではないか、というのが序盤の印象。最終的にどうなるかはまだよくわからないが。
 
 エピローグで治癒院まわりの話がさくさくと流されていったことは少々不穏で、やはりひぐらし祟殺し的な想像力が勝手に導入されてしまう。まあシナリオ構造の問題なのでエロゲではよくあることだが。

過ぎ去りて響く

 メロディをいちどきに聴くことは原理的にできない。それ以前に、メロディの構成要素たるただの一音を総体として把握することすら僕たちにはできない。音楽とは畢竟SPLの時間変化であるから、音はいつだって現在にしか存在しない。たとえば「一音」という単位が規定されるのは音の始まりと終わりを定めた時であって、経時的な変化を導入することなしに音を定義づけることは難しい。
 そんな刹那の世界にあって、しかし僕たちは矢継ぎ早に更新される現在の音だけを都度聴いているわけではなく、極めて短い時間しか保持され得ない一時的な音の記憶、つまり過去の音を物差しとして現在の音を聴いている。認識が帰還しているとみてもいいし、認識に慣性が働いているといってもいいが、そこで注意すべきは過去の音の記憶が無時間的に機能しうるということだ。リズムやメロディの解釈といった短いスパンでの機能からモチーフの展開といった大きく/遠い機能まで、音の記憶は恣意的に活用され「音楽」を立ち上げていく。立ち上がった音楽は個々人の頭の中にしかない。情報経路の質的な差と意識的な介在の方向により、音楽はいくらでもその姿を変える。
 
 くだくだしく述べるまでもなく、音楽体験を語ることの難しさがこのような構造に由来することなどは誰しも(それこそ言語化の有無などは違ったとしても)何かしらの形で悟っているものだと思うし、だからこそたとえば「歌詞だけを判断の俎上に載せる」といった態度はそれなりに広く馬鹿にされているのだと思うが、たとえばこれが小説であったら、小説に限らずとも物語であったら、と考えると、僕や或いは他の誰かがそこで歌詞ばかりを褒めるような言及しか為せていない場というのは相当に多いのではないかと思われてくる。
 体験の中に立ち上がるものを掴まえなければならない。何度もそう決心しては楽な方に流される。惰弱。

The Begginer’s Guideについて

 日本語化MODを入れて一周したので覚え書き。例によって例のごとく適当。
 
 ―――僕たちはゲームというものの作法を理解している。飛び道具や近接など明示的な攻撃手段のない2Dアクションで高い足場の前に敵がぽつんと存在していれば踏みつけて上がることを考えるだろうし、単発攻撃が弱と強それぞれ1ボタンで出せる3Dアクションならばボタンの順列組み合わせによってコンボが生成できないか試すだろう。
 未知の入出力が束となった可能性の集積と対峙して、それでも半ば自動的に最適解を察してしまうことが、よくある。
 
 だからこそ、僕たちは「ゲームとは何か」を問うようなゲームに弱い。
 無意識に内面化してしまったものの自明性を疑われることには快感がある。今作の序盤で齎される快感とは正にそれだ。ある種の強烈な個性の持ち主が手がけたゲームを時系列順にプレイし、製作者の友人であるところのナレーターによる解説がその作品群の意図や美点、そして欠点について語っていくという構図。ナレーターにより語られる言葉のうち少なくないものが一般性を持つことに気付けば後は早い。僕たちは眼前で展開される尖った個性と明確な欠落とを併せ持つ作品を前に、ゲーム一般についての考察を深めてゆくだろう。
 そのように読み込むこと、それ自体が最後のギミックに繋がっているとも知らずに。

 ゲームを製作するものへの教導に見えたそれは、最後まで付き合ってみればしかし、むしろ批評という行いについての問題提起の色を帯びている。意図の忖度。一般性への回収。コミュニケーションの可能性に満ちた創作物への無責任な礼賛。ナレーターと共に有意義で崇高な行いに協力していると思っていたプレイヤーは、それが暴力への加担でしかなかったことに気付かされる。

 総体として何を言いたかったのだろうか、というのは難しい。批評という行為そのものをも構造的に取り込んでしまっている以上、たとえば前作The Stanley Parableの受容に対するアンサーとして読む、といったことも容易に可能だ。だがまあ、言うだけなら本当に何とでも言えてしまうし、詳しくメモも取らずに一周を駆け抜けた直後の感想としては、痛烈な皮肉を擁したエンターテインメントだった、くらいがプレイ感にふさうように思う。